昨日、富山市のホテルがいっぱいだったため、高岡市に宿泊しました。
高岡市は、加賀藩主2代前田利長が築いた高岡城の城下町です。
日本三大大仏の一つにあたる高岡大仏や利長の菩提を弔うために建立された曹洞宗の国宝瑞龍寺などを翌日昼の講演までの間、2時間ばかりタクシーを使って見学したのですが、途中、高峰譲吉博士の生家であった土地を通りがかり、博士の胸像のある公園を見つけ、大変驚きました。
江戸末期から大正までを世界を股にかけて生きた、高峰譲吉博士をご存知でしょうか?
ちなみにWikipediaには、「日本の科学者、実業家。工学博士・薬学博士。タカジアスターゼ、アドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。」と書かれていますが、明治の時代にアメリカを土台に、研究とビジネスの二つを極めて高いレヴェルで成功させた、僕のとても尊敬する人物です。
高峰博士の名前を僕が初めてみたのは、まだ医学部時代にホルモンの項を勉強している生理学の時間でした。
1900年に副腎髄質から血流に分泌されるアドレナリンという名前のホルモンを発見した人物。
しかしその半年後に発表した研究者に、自分たちのエピネフリン(アドレナリンと同物質)実験と類似していると研究競争に巻き込まれ、日本でも長いことエピネフリン(アドレナリン)の名前が使用されていた事実があります。
発売以来100年を経ても、なお第一線で使用されている医薬品は、消化剤の「タカジアスターゼ」、止血剤の「アドレナリン」、そして鎮痛剤として知られる「アスピリン」の三つであると言われており、このうち二つが高峰博士の発明であるということを鑑みても、いかに博士の功績が大きなものであったか想像できます。
1901年にはノーベル賞表彰が始まりましたが、当初この賞は帝国主義時代に、運動におけるオリンピックと並んで、科学研究面での白人の優位性を示すために意図的に作られていたと言われています。
本来であれば、世界で初めてホルモンを抽出した高峰博士は候補に上がるべきでしょうし、あの北里柴三郎博士も第一回ノーベル医学生理学賞にノミネートされたのにも関わらず、共同著者のベーリングのみが受賞したという、日本人研究者としては忸怩たる思い出が蘇ってきますよね。
うちの祖父もそんな時代に九大皮膚科で医学博士を取りましたので、科学者としてはついつい感情移入してしまいます。
次に高峰博士の名前を見つけたのは、ワシントンDCでした。
http://clinic-f.com/blog/international/post_899/
ちょうど2009年の米国レーザー医学会の際に、ワシントンDCの満開の桜の写真をカメラに収めることができました。
この桜は高峰博士らが、日露戦争が日本の戦勝に終わり日本が国際的に力をつけてきたとともに日米の関係が悪化しつつある状況下で、日米の関係性を修復すべく1912年に寄贈したものだという記載があったのです。
このブログの写真は、テレビで取材もされました。
そして今回、三度目に高峰博士の名前を生家の高峰公園で見つけた後に、博士がタカジアスターゼの一連の特許を成立させたことで三共製薬の企業基礎を作り、工学博士を取得した事。
米国滞在時にさらに二つ目の学位として薬学博士号を取得した事。
電力と水脈が発達した生まれ故郷の富山にアルミニウム産業を興すことを第一次世界大戦後に提唱し、事業家としても成功したことなどを知りました。
明治時代は日本のアイデンティティを確立するため、さらにアジア人の力を世界で証明することを目的に、富国強兵、武士道魂で国民が同じ向きに向かって努力していた時期だと思います。
第二次世界大戦後に作り出された日本人の歴史観とは全く違った、国に対する愛国心で一致団結していた時代ですよね。
現在よりも価値観が多様化していませんでしたし、ある意味、住みやすかったのかもしれませんね。