何をもって幸せを感じるか?
一昨日の飲み会での話。
慶應薬学部の斎藤義正准教授が、ふと
「僕は論文を書いている時に最も幸せを感じるのです。」
とおっしゃり、思わず
僕も全く同感です
と相槌を打ってしまいました。
理系の研究者にとって、思いついた新しい理論の道筋を理論構築し、論文として美しく説明した時の喜びは、他に例えようがありません。
自然科学の学問としては、物理、化学、生物学があげられると思うのですが、その三つの学問では立証する方法が異なります。
◆物理学 16世紀に完成 「数式」で立証
◆化学 17世紀に完成 「化学式」で立証
◆生物学 1950年のDNA発見以来進行形 「図表写真」で立証
というのが新たな理論を立証する手段であるといえます。
片や、生物学の一端として成長を続けてきた医学はどうでしょうか?
西洋医学は、1928年にアレキサンダー・フレミングが抗生物質を発見したところから信頼度を増し、さらに麻酔や手術室の完成がそれを後押ししましたが、やはり効能を「統計の有意差」というもので立証する技術により信憑性を増したのだと思います。
薬や治療法の効能を立証する際、使用の有無によりいくつかの群を比較して、実際に差が出たかどうかを効果判定を行うのです。
僕も研究をプロットをする際には、まず新たな理論をクリエイトするのかそれとも既存の理論をフュージョンするのかを検討し、どうすれば最も有意差が出るのか、因果関係を掴めるのかを考えます。
この際、形成外科皮膚科的な写真判定による生物学的な立証方法と、統計を用いた客観的データを比較する立証方法のどちらを取る戦略で行くかも考えますね。
こうした多元副次方程式の解がスパッと頭の中で導かれた時、論文に着手するのです。
この際に報酬系の脳内トランスミッターであるドーパミンが放出されることで、強い幸せを感じるのでしょう。
閑話休題
哲学的には、幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におくアリストテレスの幸福論が古典的でしたが、近代になってイギリスからキリスト教のものではない世俗的な価値観が現れると、感性的な快のもたらす満足感が幸福なのだとする、いわば「功利主義」が幸福理論とされるようになりました。
MBAで経営学を学んでいた時に、欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズローの欲求五段階説を学びましたが、まず人間の欲求は
☆外的に満たされたい という低次の欲求
1)生きるために必要な「生理的欲求」
2)危険を回避するための「安全欲求」
3)集団に属するような「社会的欲求」
から始まります。
これらが実現されたのちに
☆内的に満たされたい というより高次の欲求
4)他者から認められたい、尊敬されたい「尊厳欲求」
5)自分の能力を引き出し、創造的活動などの「自己実現欲求」
を求めにゆく、とされ
しかしながら、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために
「絶対的幸福というものは存在しない」
とされていました。
これは現在の価値観にもほぼ一致しますよね。
個人的に、僕が幸せを感じることができるようになったのは、
「自分の理性に鑑みて、理不尽だと思うことはしないし、そのことを誹謗されても気にしない」
と決めたからです。
こうした思考をすると「考える事」はあっても、「悩む事」は一切なくなりましたね。
同じ時間を使っても、考えると悩むとでは大きな違いです。
この境地に至った背景には
クリニックFという自分の城を持ち、多くのスタッフに支えられながら経済的にも安定したために組織に属さなくて良くなったことが、精神的なストレスを減らし、全ての能力を知的好奇心を満たすための原動力に進めることができるようになった。
ということがあるのだと思います。
今後も、新たな技術の医療機器を用いた美容医療を提案するとともに、健康医療領域における多くの謎解きを、理系の研究手法を用いて考え行なってゆきたいと思います。