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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

劇団四季「サウンド・オブ・ミュージック」

先月ロンドンに行ったとき、観たかったのに残念ながら当日券が手に入らなかったミュージカルがひとつありました。

それは名作「サウンド・オブ・ミュージック」。

でも、考えてみれば今は東京でも観られるんですよね。

昨日は休診日。この4月から浜松町で開演している劇団四季の「サウンド・オブ・ミュージック」を観に行ってきました。

「サウンド・オブ・ミュージック」は、リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン2世のペアで1959年にブロードウェイで初演され、1965年にジュリー・アンドリュース主演の映画が公開されたことによって、世界的大ヒットとなりました。

名曲が何曲もここで生まれ、今でも世界中で口ずさまれていますよね。

「ミュージカルの古典」とも言える作品ですが、2006年に新たな装いで登場します。あのアンドリュー・ロイド=ウェバーがこの名作をプロデュースし、再生させたのです。

アンドリュー・ロイド=ウェバーは、1961年ロンドン初演の際にこの作品を観ているのだそうです。その際あまりに感動し、ロジャースとハマースタイン2世二人に直接手紙を送ったのだとか。それが縁となって、舞台稽古に招かれたこともあるのだと、浅利慶太さんが書いていました。

1961年の初演・・・ということは、1948年生まれのロイド=ウェバーは13歳ということになります。

アンドリュー少年がこの作品と出逢ってなかったら、後の名作「ジーザス・クライスト=スーパースター」も「キャッツ」も「オペラ座の怪人」も生まれなかったかもしれません。

そう考えると、どの世界でもそうなのでしょうが、人生なにがきっかけとなって変わるのか、わかりませんね。

さて、そんなロイド・ウェバー版の「サウンド・オブ・ミュージック」、相当楽しみに出かけてきたのですが・・・

うーん。

「サウンド・オブ・ミュージック」を今まで観たことのない人はとても楽しめると思うんですが、僕はきっと映画版の印象が強すぎるんでしょうね。

僕が初めて「サウンド・オブ・ミュージック」の映画を観たのは小学校一年生のとき。

今でも覚えているぐらい、強烈な印象があります。

修道女であったマリアが、母親を失った7人の子供たちと、トラップ大佐の家庭に、歌と明るさを取り戻すというストーリー。この映画の中に、たぶん僕は人生で初めて、ヨーロッパ文化を観たのだと思うのです。

僕の母親は僕が生まれる前に、スペインの修道院に寄宿していたことは以前ブログにも書いたと思うのですが、小さなころから西洋のお城や音楽、教会、身分社会、そして街並についての話を、物語として良く母親が話していました。

また、当時フジテレビで放映されていた「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」など、アニメでヨーロッパの街並みや暮らしを観たことはありました。

でもそれらはいずれも漠然とした遠い存在だったのです。

しかし、「サウンド・オブ・ミュージック」には、そんな場所や人々を映すリアルな映像が溢れていました。

オーストリア・ザルツブルグの街並みや、トラップ大佐の住む大きなお城、その内装。トラップ家に仕える召使たち。貴族たちのダンスパーティー。クラシック音楽。清貧な修道院。ナチスドイツに併合されるオーストリア帝国・・・。

漠然とイメージしていたヨーロッパの文化を、実際にこの目で初めて映像として見ることができたのです。

当時はビデオも無かった時代ですので、藤本家では年に一度、この映画がテレビで再放送されるときを家族皆が心待ちにしていました。このときだけは、遅くまで起きていても良かったことを思い出します。

大人になってすぐにDVDも購入したので、子供の時から数えると、映画版を僕は間違いなく100回以上観ていることになります。それくらい僕にとっては思い入れの強いもので、曲も歌詞も、完全に脳に刻み込まれているんですよね。

ロイド=ウェバーには程遠いですが、僕があらゆる芸術を含めたヨーロッパ文化史に目覚めるきっかけとなったのは間違いなくこの作品との出逢いによるもので、大袈裟に言えば「サウンド・オブ・ミュージック」がなければ、このブログでオペラやミュージカルについて書くこともなかったことでしょう。

そんな僕なので

ミュージカルの中で、映画のシーンと曲が入れ替わって使われていたり、歌詞が中途半端に日本語になっていたりするこの作品は、ちょっと違和感があって・・・僕としては、物語にすっと入り込むことができなかったのです。

英語版で観たら、また違った印象だったんでしょうか・・・?

とは言え、ひとつ

いいな

と思ったのは、「ドレミの歌」が、日本人には親しまれている、ペギー葉山さんの歌詞だったことです。

日本語版の企画演出を務めておられる浅利慶太さんによると、このドレミの歌の歌詞は、不思議なことに、ペギーさんご自身が出演された舞台以外では使われてこなかったのだそうです。

購入したパンフレットには、ペギー葉山さんの日本語版「ドレミの歌」の誕生秘話が載っていて、興味深く読ませていただきました。

ペギーさんは、1960年に、2度目のブロードウェイ体験で、この「サウンド・オブ・ミュージック」の公演を観たのだそうです。

ちょうどその前日、「ウエストサイドストーリー」を観て、完全にノックアウトされて、しばらく椅子から立ち上がれない位の衝撃を受けた。

そして翌日、そのとなりのラント・フォンテーン劇場で、この「サウンド・オブ・ミュージック」を観て、第一幕の途中の「ドレミの歌」を聴いた時に、津波が押し寄せてくるような感覚を受けて、この曲の日本語訳を作ろうと思ったのだそうですよ。

1960年に、ブロードウェイで、この二つの作品を二日連続して観られるなんて、ペギーさんは、なんという僥倖に巡り合ったのでしょう。その場に居合わせたかったですよね。

第二幕を観ながら、

「ドはドーナツのド」

は、すぐに思いついたそうなのですが、次はどんな歌詞にしようかなんて、考えていたのだそうです。

今では「ドレミの歌」は、音楽の教科書にも載っていて、「日本の歌百選」にも選ばれた、日本人なら誰でも歌える曲ですものね。


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